美しく立派な理念だけではスーツの生命力を支えるには不十分であった。上品な大動脈に数滴の毒。これこそがのちのちのスーツの底力となるのである。私はイギリスに滞在中、スーツの着こなしだけではっとさせるような、これぞブリティッシュージェントルマンの精華という男性にすれちがったことが何度がある。その着こなしを反別してみると、スーツはシブい光沢の紺ストライプで、Vゾーンには鮮烈なピンクや黄色や赤が、ときにハットんでもない柄と配色であしらわれているのだった。なのに、けして下品に転ばず、全体として洗練のきわみ、というニュアンスを発していたのである。日本のハイツ文化をリードする女性誌『ヴァンサンカン』がうるさく教える「エレガンスにはキワが必要」(キワどい、のキワ)ということばや、ファッション雑誌『ヴォーグ』の元編集長だったダイアナーヴリーランドの「俗亜ごさは生活の必須スパイス」という格言の意味を理解した気になったのは、そういう「紳士」のきわどい着こなしに出会ったときであった。そういえば、「ソフィスティケーション(洗練)」という英語には不純物を混ぜて練り上げる、というニュアンスがある。「ソフィスト」なんて脆弁家のことである。純度百パーセントではなく、どこかに毒や不純なもの、下品すれすれのものを混ぜて、なおかつ絶妙のバランスで上品さを保つこと。これが人の感情を根源からゆさぶるエレガンスの秘訣なのかもしれない。スーツは十八世紀にすでにそれをやっていた。そして続く十九、二十世紀にも、野卑なもの、下品なもの、反体制的なものを、上手にとりこみ続けていくのである。体制に固まった人間の制服とみられることの多いスーツが、多少のアレンジによって反体制的な感情をも表現することが可能なのは、かつてとりこんだそんなエッセンスがスーツの命脈のなかに着実に生きているからである。
服装のスタイルを変えたといっても、高い洋服を着るようになったというわけではありません。コーチとしてのイメージを優先した結果、以前よりコンサバティブでやや地味な服装になったと自分では思いましたが、相手にとってはそのほうが好印象であるようでした。私の中身は変かっていないのに、服装しだいで驚くほど相手の態度に変化があることを体験して、やはり「人は見かけで判断されている」のだと、身をもって知ったのでした。私か、コーチにふさわしいイメージを暗黙のうちに求められていたように、営業マンなら清潔さ、銀行員であれば堅実さというように、ビジネスの現場では役割にふさわしいイメージが常に求められます。そのイメージから外れてしまうと、仕事の実績が正当に評価されなかったり、フリーランスの方であれば仕事そのものにつながらなかったりすることも十分ありうるでしょう。
洋服、いったん着用すれば機能的であったけれど、着物を着慣れた当時の男性には着方の点て戸惑うところが大きかったらしい。一八六七年、片山淳之助(福沢諭吉のペンネーム)が書いた『西洋衣食住』には洋服の各アイテムの名称と用法が画図を入れて説明されているのだが、そのなかで洋服の着方は次のように解説されている。(原文の表記を現代語として読みやすいように変更した)着用の順は、まず第一番に肌じゅばんを着、その次に下股引き、その次に上じゅばんと順々に番号を遂い、第九番の羽織を着て一通り衣装の飾り備わるなり。また、かの国の衣装には方々にかくしあるゆえ、さげものその他手回りの小道具はことごとくかくしのうちに入れるべし。たとえば手拭は羽織のかくしに入れ、金入れは股引きのかくしに入れ、時計はチョッキのかくしに入れて鎖をボタンの穴にかけるなど、たいていそれぞれの決まりあり。また小便へ行くときは上下とも、股引きの前ボタンをはずして事済むなれども、大便にはまずこのボタンをはずし、次にズボン吊りのボタンを前後ともにはずして大便終われば、またそのボタンを掛るに、後ろのボタンは手探りにて掛けることゆえ、衣服に慣れざる間は、はなはだ不便利なり。